横浜白門会支部創立120周年「箱根駅伝ルート」散策紀行(茅ヶ崎→大磯編)

箱根駅伝紀行 茅ヶ崎から大磯まで
今回は茅ヶ崎駅で茅ヶ崎白門会の皆様と集合して歩き始めました。

幕府公認の宿場ではないが

茅ヶ崎は藤沢宿と平塚宿の中間であり「間の宿」として発展してきた。旅人の足の具合によっては公認の宿駅までの距離が微妙になる人もいて、この間の宿が自然発生的に出来てきた。また、公認の宿駅には大名の参勤交代での宿泊もあり、混雑したり取り締まりも厳しかったりがあったので避けたのではないだろうか。

JR相模線

東海道線JR茅ヶ崎駅にはJR相模線が接続している。茅ヶ崎駅から相模川沿いを北上し、途中海老名駅を通って相模原市の橋本駅までを結ぶ路線である。
当初は相模鉄道という私鉄で開業され、主に相模川で採取された砂利を運ぶ目的で運用された。同じく海老名で砂利を採取して横浜に運んでいた海老名駅から横浜に向かう神中鉄道を合併し二路線での営業がされた。
この海老名は、相模川が上流から運んできた上質な砂利の宝庫であり、海老名からは東京方面に砂利を運ぶことを目的として開設された現在の小田急線も乗り入れており、現在もJR相模線、相模鉄道、小田急電鉄の3社の路線が駅を連ねている。
JR相模線は私鉄相模鉄道の一路線であったが、太平洋戦争時に国に買収され、戦後の返還交渉も不調に終わり、国鉄の路線を経て現在はJR東日本の路線となっている。

神奈川県寒川町

茅ヶ崎の北に寒川町という町がある。ここは源義経の敵役として映画やドラマに描かれる梶原景時の所領があったところである。また、ここには寒川神社という不思議な神社がある。
この神社に祀られている夫婦の神様は古事記、日本書紀のどこにも記載がないにもかかわらず相模一の宮の格式を持ち、平安時代末期まで関東総鎮守としての格式を持っていた。
さらに、神社の社は南向きか東向きが一般的であるが、寒川神社は西南向きに社殿が建てられており、参拝者は東北(鬼門)に向かって参拝することになる。この事から、寒川神社は八方除けの神社として人気がある。

毛利元就の先祖の地

海老名市から相模川をはさんで西側に厚木市が大きな街並みを見せている。この厚木市に毛利(もり)という古い地名が残っている。鎌倉幕府草創の時期、政権のブレーンとして活躍した大江広元にこの毛利(もり)の地が所領として与えられた。広元の子孫は大江の姓から毛利(もり)へと姓を改め、鎌倉幕府で働いていたが、北条氏と三浦一族の対立が激化し戦となった時に毛利(もり)は三浦方につき敗戦。この毛利(もり)家は断絶した。

越後の方にいた毛利(もり)家の一族は生き残ったが、東国から退けられ、安芸の国(現広島県)あたりの小さな所領に入封され、鎌倉時代、室町時代の激動の中で大国に挟まれ苦労ばかりの時代を過ごしたが、元就が毛利家を継ぐと、近隣を切り取り、のちに中国地方の大部分を所領する大名「毛利家」へと変貌した。関が原の戦で方針を誤り、わずか二国の所領になってしまったが、明治維新で幕府を転覆させるまでになっている。
幕末に活躍した島津も相模の国出身の様であり、鎌倉時代に幾度となく薩摩守となったことから薩摩に土着し九州一の大名となったが、同じく関ヶ原の戦いで方針を誤り、わずか二国の所領になってしまったが、明治維新で幕府を転覆させるまでになっている。

茅ヶ崎の箱根駅伝ルート

茅ヶ崎の箱根駅伝ルートはほとんどが海岸沿いのルートである。防砂林に挟まれた気持ちの良い道路が続くが、湘南大橋に至ると、風を遮るものが無くなり、相模川を吹き抜ける強い風が選手を苦しめる。この馬入橋の名は、相模川下流域の名称が馬入川という所からつけられた。

相模川(馬入川)

相模川の源流は富士山である。富士山の伏流水が山中湖に集まり、富士五湖の一つ山中湖から流れ出た水が山梨県の忍野八海近くを流れ、富士五湖の一つ河口湖の手前を北上して大月付近で東に流れを変え、小仏台地を削り取り見事な河岸段丘を形成しながら現在は相模湖という人造湖に水をたたえている。そこから道志川、愛川、中津川の流れを合わせて南下して神奈川県を二分するように相模湾に流れ込む。この流れの途中で削り取った砂利が、明治時代の東京や横浜の近代建築の材料となった。
相模川下流域が馬入川と呼ばれるのは、征夷大将軍源頼朝がこの相模川に橋がかけられたのを記念して見物に来た時、馬に乗ったまま相模川に入ったことから、馬入と呼ばれるようになったとの言い伝えがある。
頼朝はその翌日落馬して、それが原因か死亡したという。

駅伝ルートは茅ヶ崎から平塚へ

駅伝ルートは馬入橋を過ぎて平塚中継所に進む。平塚中継所でタスキを受けた選手はルートを北上して国道1号線へと進む。ここでは唯一富士山を左手に見ることとなるのだが、選手に富士山を見る余裕はない。
東海道五十三次では京都に向かう場合、富士山は常に右手側に見えるのだが、左手に富士山を望むのは二か所だけであるが、この馬入川周辺がその一つである。

平塚市七夕まつり

平塚市は七夕祭りで有名である。平塚には旧日本海軍の火薬廠があり、海軍の砲弾用の火薬工場が建ち並んでいた為、アメリカ軍は平塚市へ激しい空襲を行い、地方の一都市としては異例なまでの焼け野原となった。1950年平塚の復興祭が開かれ、やがてその復興
蔡が七夕祭りへと変わっていった。
今は、整備された都市計画に基づき綺麗な街づくりが進んでいる。七夕祭りも中止の危機もあったが、市民の力によって継続がなされ、若い人たちが大勢集まり、七夕祭りを楽しんでいる。平和は誠に良いものである。

塚のお隣、大磯へと駅伝ルートは続く