横浜白門会支部創立120周年「箱根駅伝ルート」散策紀行(大磯→小田原編)

箱根駅伝紀行 大磯から小田原まで歩きます。

湘南平・高麗山

駅伝ルートからは少し離れるが、平塚中継所から北上して国道1号に向かう選手には目の前に大磯丘陵の山並みを見ることができる。
この大磯丘陵の東端に高麗山という山がある。ここ大磯という地名は元々「オーイッソ」という古代朝鮮語であるという。意味は「良くいらっしゃいました」という事である。
668年朝鮮半島中部から中国東北部の一部を支配していた高句麗が唐と新羅の連合軍により滅ぼされると、高句麗からの亡命者が当時の我が国である倭国に亡命してきたといわれている。その中の高句麗の王族の一人若光(じゃっこう)が高句麗の亡命者たちを引き連れ、現在大磯と呼ばれる地域の浜に上陸したという。その時、この湘南平の山並みが目印になったということである。
若光たちの渡来人たちは、この地に住み着き、先祖の霊を祭るための社が建てられ、後に高麗神社(こうらいじんじゃ)となっていった。
その後716年、各地に散らばっていた若光たち渡来人は現在の埼玉県日高市あたりに高麗郡(こまぐん)という一郡を与えられそこに住み着き、日本に同化していった。
高麗神社は、平安時代に広まった本地垂迹説により権現の格式が与えられ、高麗権現として栄えていった。徳川時代は家康が大権現と呼ばれたことから、権現は尊重され、高麗権現は格式が高くなり、東海道を参勤交代で往来する大名たちは、この高麗権現の前で籠から降りて礼をしてから旅路を続けたという。今も神社のお隣のお寺の屋根には徳川家の三つ葉葵の紋が輝いている。
明治になると、徳川家康の権現は敵視され、高麗権現の名は高麗神社に改められ、さらに朝鮮併合により、高麗は駄目だとして高来と漢字を当てられ、たかき神社となっていった。
時代に翻弄されていった神社である。

保養所となった大磯

大磯は明治時代から大物政治家や実業家の別荘地として人気が高かった。
初期に別荘を建てたのは伊藤博文であり、伊藤博文の別荘で明治憲法の草案が検討された。
太平洋戦争の敗戦後、首相となった吉田茂の別荘では、若手の議員や官僚、経済人が集まり吉田学校とも称された場所で、戦後の復興計画が策定されていった。
この大磯を保養所として最初に目をつけたのが初代陸軍軍医総監を務めた松本順であった。松本潤は海水浴が健康に良いとして、海水浴場に適した場所を探していて、この大磯の海岸に目をつけた。しかし、当時は海水浴などする人もない時代である。
その頃、鉄道線路の敷設計画で東海道線が横浜から国府津までが決定された。そこで伊藤博文に掛け合って、大磯に別荘を建てさせた。その別荘の話を聞いた明治の元勲たちも我も我もと別荘を建てた。その結果、大磯には駅ができ、多くの人が保養地として別荘を建て始め、海水浴も普及していった。大磯町は松本順への感謝を込めて顕彰碑を建てている。
ちなみに、松本潤の実父は佐藤泰然といい、千葉の佐倉で「佐倉順天堂」という医院で患者を診ながら、多くの医師を育てていた。現在の「順天堂大学」の基盤を作った人である。

駅伝ルートは明治の元勲たちの別荘跡地の横を走り抜ける

伊藤博文をはじめ、明治の元勲たちの別荘跡地を横目に見て選手たちは小田原へと向かって走る。沿道の吉田茂元首相や三井家の別荘跡などを過ぎるころ、正面に箱根の山が見えてくる。
ここを過ぎればアップダウンの少ないルートになる。

大磯、鴫立庵(しぎたつあん)

大磯には、箱根ルート沿道に俳句の三大道場の一つ鴫立庵がある。平安時代末期の歌人西行法師がこの地を訪れた時に読んだ歌がこの庵の名前となった。
こころなき 身にもあわれは 知られけり 鴫立沢の 秋の夕暮京都の落柿舎、滋賀の無名庵とこの鴫立庵が三大俳諧道場とされている。

国府津駅前

駅伝ルートは国府津駅前を通って小田原に向けて走り抜ける。この国府津駅は御殿場線の始発駅である。国府津駅から山北駅、御殿場駅を経て沼津駅までの路線であり、神奈川県内を一部走るが、この路線はJR西日本に所属する。
元々は、伊豆半島の熱海と三島の間に丹那トンネルが開通するまでは、現在御殿場線となっている路線が東海道線であった。国府津駅から御殿場に向かう路線は急こう配が続き、蒸気機関車では結構大変であったと思う。開設当初からレールは複線であったが東海道線が丹那トンネルの開通で小田原、熱海、三島へとルートを替えた為、国府津駅から沼津駅までの路線は単線とされ、除かれた線路は東海道線の線路に再利用された。

二宮町吾妻山公園

小田原の手前に二宮町という所がある。この街に吾妻山公園という春は菜の花が美しく咲いている公園がある。ここはヤマトタケルノミコト一行が現在の横須賀から船に乗って荒ぶる神を征伐に向かう時、海が荒れて、一行の命も危うくなったとき、妻であったオトタチバナヒメが身代わりとなって海にその身を投げ込んで一行を助けた。後に、そのオトタチバナヒメが髪にさしていた笄(こうがい)が浜に打ち上げられた。その笄(こうがい)を山の頂上に埋めたことから山の下に吾妻神社が造られたとの、伝説がある。(新編相模国風土記より)
余談であるが、神奈川県にはもう一つ吾妻山がある。小田急線秦野駅近くに弘法山トレイルとして多くの人に手軽に登ることができる山がある。四つのピークがある山並みであるが、いずれも低山であり、弘法山の名もあるように弘法大師空海の伝説と、標高125mの吾妻山には、ヤマトタケルノミコトがこの山の頂上から相模平野を望み、三浦半島の景色を見ながら、身を捨ててヤマトタケルノミコトを救ったオトタチバナヒメの事を思い出しながら「吾妻はや」と口にしたとの伝説がある。
古事記には足柄の坂本の坂を登り立ちて、三度なげかして「吾妻はや」と詔りたまいき。
故にその国をアズマという。その後足柄を経て甲斐の国を通り信濃の国に出て尾張の国に帰られたと記されている。

小田原

小田原は後北条家の本拠地として、戦国時代の城の中でも大阪城と並ぶ最大級の大きさを誇る城郭都市であった。秀吉との戦いで後北条家は城を明け渡し、徳川家康が領地替えにより関東の大部分を所領とすることになり、家臣の大久保家に城が預けられた。
後北条の初代の伊勢新九郎は、伊勢氏の一族であった模様であるが、伊勢氏は、元は平家の一族の内、伊勢平氏に繫がることから、同じ平氏の一族を標榜していた北条の名を使ったのではとされているが、真意は不明である。
関東は、上杉家の関東管領職を巡っての一族の争いが長く続き、全国で一番早く戦国時代を迎えたのではとも思えるほどであるが、この定義は歴史家に委ねるとして、この混乱の中、小田原城を乗っ取った伊勢新九郎から始まり、後北条は領民の租税を五公五民の50%の年貢の取り立てから、四公六民の40%の年貢の取り立てに軽くするなど領民への優遇措置を施行していた。そのため領地での民衆の心を十分につなぎ止めることができた。これらの政策が、関東に残る上杉家や足利家の勢力を次々とそぎ落とし、関東に勢力
を広げていった。徳川家康が関東に入った時、この四公六民が家康にとって重荷になると秀吉は踏んでいたのではないかと思ってしまう。

小田原中継所に向けて

小田原市街のルートで、テレビ報道がされる左に曲がってすぐ右に曲がる鍵の字の交差点ルートを過ぎると、右手に、小さな城のような建物が見えてくる。小田原で五百年続く「漢方薬ういろう」と「お菓子のういろう」の製造販売をしている「ういろう」のお店である。
この先は小田原城の箱根口と呼ばれ、小田原中継所までは少しずつ登りの道になる。

小田原漁港

小田原の前の相模湾は、豊漁の海であった。今では、ほとんど獲れなくなったブリも小田原の名物であった。漁港の古老たちは、昔から「ブナの木一本、ブリ10貫」と言い伝えてきた。山を育てないと海も育たないという事を昔の人も経験から知っていたのである。
山の植物性プランクトンが川の流れにより海に注がれ、動物性プランクトンがこれを餌にして大量に発生する。その動物性プランクトンを餌にして小魚が増える。その小魚を大きな魚が狙って集まってくる。この循環を閉じてしまっては、海は豊かにならない。

小田原名物かまぼこ

小田原の沿岸漁業が盛んであった当時、売れ残る魚も多くあり、冷凍技術などが無い時代であったことから、魚をすり身にして「かまぼこ」にすることで少しは日持ちが良くなることから、小田原では「かまぼこ」の生産が盛んになり、箱根の旅籠に卸すなど販売先も多かったことから多くの職人が集まり生産が拡大していった。