横浜白門会支部創立120周年「箱根駅伝ルート」散策紀行(京急川崎駅→鶴見編)

京急川崎駅→鶴見

文責 横浜白門会支部

 六郷橋から多摩川の流れを見ています。多摩川は穏やかな流れを見せています。実は、横浜白門会支部は2022年に支部創立120年を迎えましたが、コロナウイルス蔓延の影響で祝賀会の開催準備をすることができませんでした。そこで祝賀会を少し延長して横浜白門会支部創立125周年に向けて、一つのイベントをすることにしました。それが箱根駅伝ルートを、ここ六郷橋から箱根芦ノ湖のゴールに向けて、走るのは無理なので何回かに分けてゆっくり歩いて行こうという体力と気力のいっぱい詰まった計画を立てました。
横浜白門会支部が創立120年とは書きましたが、神奈川県は不思議なところで、かつて国の出先機関等は横浜法務局というように横浜という地名で神奈川県全体の行政を行っていました。横浜支部が承認された時も神奈川県支部という名称にはならなかった模様で、横浜支部とはいうものの本来は神奈川県支部としての扱いであったと思っています。このことから横浜支部の伝統として、「神奈川は一つである
という標語が存在しています。私達もこの伝統の下、県内の各支部・白門会と連携して神奈川県の学員会を盛り立てていくことを目指しています。
神奈川県は川崎白門会支部、横浜白門会支部、藤沢白門会支部、逗葉白門会、茅ヶ崎白門会、平塚白門会支部、小田原白門会と、箱根駅伝の走路が各支部・地域白門会の中を通過しており、1月の2日と3日は沿道での応援で大いに盛り上がっています。県内には他に相模原白門会支部、大和白門会支部もあり、この二つの支部の会員も箱根駅伝を応援すべくルート沿いの応援場所に参加しています。
この箱根駅伝走路を歩くイベントには、横浜白門会支部の会員のみならず、県内の各支部・地域白門会の会員も各地域での参加が見込まれています。
また、2022年は日本の鉄道開業150年にもあたることから、駅伝ルート沿いの神奈川県内の鉄道の歴史の事にも少し触れつつ、かなりの寄り道をしながらの紀行文とさせていただきます。なお、紀行文中には諸説ある事項が多数あり、できる限り事実に近い部分を記載して参りますが、筆者の独断により一部のみを記載していますことを御了承ください。

「六郷橋の上から見る多摩川は水質の浄化も進み、多摩川にアユが戻ったなどのニュースも流れるようになった。その反面、ペットとして飼っていた外来魚を「大きくなりすぎた」あるいは「飽きた」などの理由で多摩川に放流する人が現れ、アマゾン川の魚が多摩川を泳いでいるという事態が発生し、多摩川ならぬ「タマゾン川」と揶揄される事態になった。そこで家庭で飼えなくなった外来魚などを受け入れて一時保管する「おさかなポスト」が構想され、一人の人物にその運営が託された。川崎白門会支部がその運営者の山崎充哲(みつあき)さんに講演を依頼し、私達も多摩川の現状を知ることになった。その後山崎さんは病を得て亡くなられたが、娘さんが父の遺志を継ぎ、今も多摩川を守るべく「おさかなポスト」が続けられているニュースが報じられていた。この小さな努力に大きなエールを送りたい。

駅伝選手は、多摩川の川風を受けながら六郷橋を渡り、京急大師線の線路を下に見るようにして川崎駅方面に向けて疾走していく。六郷橋を過ぎると、ほとんど平坦なルートであり、多摩川の風の影響も消えることから、一段と力が入ることとなる。

六郷橋を選手達は渡って京急大師線の上の陸橋を走り抜け川崎駅方面を目指します。

 

「川崎には通称川崎大師と呼ばれる平間寺がある。江戸時代にはすでに厄除けのご利益があるとして江戸からも多くの人が参拝に訪れていた。この参拝客が川崎宿に泊まることから川崎宿は大いに栄えていった。明治5年(1872年)新橋・横浜間に陸蒸気が走るようになると川崎にも駅が作られた。

「明治32年(1899年)1月21日、たった1両の電車が満員の乗客を乗せて初めて六郷橋から大師へ向けて走った。その日は川崎大師の縁日にあたり参詣を兼ねて多数の見物人が押し寄せ、沿線の安全確保のため、数十人の巡査が動員されたという。

営業路線はわずか2kmの単線で開業したのが現在の京浜急行電鉄の前身大師電気鉄道であった。開業後は名称を京浜電気鉄道と改め京浜間全通という夢を実現すべく歩み始めた。(京急歴史館参考)

「川崎白門会支部が、例年箱根駅伝の復路の応援場所としている稲毛神社には、正岡子規の句碑がある。その句の中に『徒歩で行く 大師詣でや 梨の花』ほか梨を季語にする句がいくつかある。かつて多摩川下流域の両岸は梨の名産地であったという。明治26年に川崎大師近くの農家の梨畑で発見された新種が同家の屋号から「長十郎」と名付けられたという。一時期は全国の梨の生産量の8割を占めるほどに「長十郎」は人気があった。しかし、川崎は工業化が進み梨畑は潰されていった。(川崎区の宝物シート参考)

「川崎には、かつて大師海苔と称された美味しいノリが生産されていた。東京湾ではアサクサノリの生産が盛んで、品川、川崎、横浜の杉田の浜あたりまでの海岸で盛んに養殖されていた。東京でも品川海苔と並んで大師海苔も有名であり、東京名物の浅草海苔の材料としても使われ全国に販売されていった。この海苔も工業化の進む中、海岸の埋め立てで生産されなくなり消えてしまった。(大師門前通りの店の人より)

 駅伝ルートの国道15号線が川崎駅から続く道路と合流する大きな交差点では、毎年多くの観客で賑わっており、大きな歓声が響き渡る場所であり、鶴見中継所に向けて、各校の選手たちが残された力を振り絞る地点でもある。

「川崎駅から海岸に向かって歩いていくと、今は命名権を富士通に譲渡しているので富士通スタジアム川崎と称する施設がある、ここはかつて川崎球場として親しまれた場所であった。川崎球場を本拠地としたのが大洋ホエールズ球団であった。いつもセ・リーグ最下位を争うチームであったが、1960年三原監督率いる大洋ホエールズがリーグ優勝そして日本シリーズでも優勝して川崎は大いに盛り上がった。その時を最後に又低迷状態に陥り、ついにはオーナーの中部健吉大洋漁業社長は大洋ホエールズの横浜への移転計画を打ち立てた。そして、その移転計画の責任者として大洋ホエールズの社長に指名されたのが当時大洋漁業に在籍していた久野修慈氏(現中央大学学員会会長)であった。この移転話についての苦労話は実に面白いので、久野修慈学員会会長ご本人から聞いていただきたい。

大洋ホエールズ移転後は、ロッテ・オリオンズが本拠地としていたが、ロッテ・オリオンズも千葉に移転したため、川崎球場を本拠地とするプロ野球チームが消滅した。現在は改修された球技場が設立され、当球技場は中央大学アメリカンフットボール部(通称ラクーンズ)も加盟している関東学生アメリカンフットボール連盟の試合会場としても利用されている。

 

川崎駅近くを通過すると、やがて南武線の支線の鉄橋が見えてくる。鉄橋を過ぎれば、やがて鶴見中継所が見えてくる。1区の選手たちのラストスパートに観客達も大いに盛り上がり、声援がさらに大きくなる場所でもある。

「川崎には川崎駅から立川駅までを結ぶJR南武線が市内を縦に走っている。当初は登戸や宿川原で採取した多摩川の砂利運搬を目的とする南部鉄道株式会社が設立されたが、思うようには資金が集まらず、着工時期すら見当がつかない状況であった。その状況に目をつけたのが浅野セメント(日本セメントを経て、現在の太平洋セメント)の浅野総一郎と浅野財閥であった。浅野総一郎はセメントの原料を運ぶべく、青梅鉄道(現在の青梅線)を傘下に収めていたが、青梅から中央線・山手線を経由して東海道本線で石灰石を川崎まで運んでいた。川崎と立川を結ぶ計画の南部鉄道を傘下にすれば自分の傘下の路線で石灰石を運ぶことになり、輸送コストの面での利益を確保することができると判断して、資金を提供して南部鉄道の筆頭株主となった。後に1944年に戦時買収私鉄に指定され青梅鉄道・南部鉄道を始め浅野財閥が傘下に収めていた鉄道は全て国有化されて今日に至っている。

今、駅伝ルートの上を鉄橋が架かっているが、かつては貨物路線でもあったが、今では貨物輸送は廃止され、多い時でも1時間に5本程度、少ない時は1時間に1本の旅客運転が尻手駅と鶴見線浜川崎駅の間で運行されている。

鶴見中継所に建つ銅像は、今まさに選手が母校のタスキを次の選手につなげる様を見事に活写していて実に素晴らしい。この先、選手は鶴見川に架かる橋を渡り鶴見駅近くのルートを横浜駅方面へと走り抜けていく。花の2区の激走がここ鶴見中継所から始まる。

「鶴見川は、中央大学八王子校舎近くの多摩丘陵にある『鶴見川源流泉のひろば』を源流として、町田市を二分するように流れ、横浜では大きく蛇行しながら流れている。中流地域には小机城という難攻不落の城があった。太田道灌がこの城を攻落とすのにかなり苦労したという。この辺りは篠原という地名もあり、城の周りは鶴見川の河川敷であり、篠の原で足元が悪い場所であったと思われる。攻めにくい城であったと想像している。今はその近くに東海道新幹線の新横浜駅があり、周辺の開発が続いている。

「鶴見には、沖縄県出身者が多く集まる沖縄タウンと呼ばれる場所がある。沖縄からは大正時代の頃から京浜工業地帯に工場労働者として出稼ぎに来られた人たちが鶴見地域に多く集まり、多くの人達が鶴見に定住した。今ではリトル沖縄と呼ばれ、関東最大の沖縄タウンとなっており、沖縄料理の提供や沖縄文化の発信を盛んにしている。」

 

横浜白門会支部創立120周年「箱根駅伝ルート」散策紀行(鶴見→横浜駅編)へ続きます。