横浜白門会支部創立120周年「箱根駅伝ルート」散策紀行(鶴見→横浜駅編)

鶴見→横浜駅

鶴見駅の西口には曹洞宗で永平寺と並ぶ中心寺院(大本山)である総持寺の大きな伽藍を見ることができる。元は石川県輪島にあった総持寺が明治31年(1898年)火災にあい消失したため明治44年(1911年)に現在の地に移転してきた。
曹洞宗は1592年神田駿河台に栴檀林と名付けた学校を創設して、子弟の教育に当たっていた。この栴檀林が発展して大正14年(1925年)大学令に基づき駒澤大学となった。駒澤大学は、箱根駅伝の常連校であり、優勝候補の一角をいつも占めている強豪校である。

鶴見から横浜駅までのルートも平坦な道が続き、記録を伸ばすのに都合の良い走路であり、各選手のせめぎ合いが楽しみな所でもある。

鶴見駅前から駅伝ルートを横浜方面に進むと、鶴見線のガードが見えてくる。営業路線距離9.7㎞の短い路線であるが、京浜工業地帯に向かう重要な路線である。
大正13年(1924年)浅野財閥(浅野セメントを経て現太平洋セメント)が中心となって鶴見臨港鉄道会社が設立され、大正15年(1926年)開業、少しずつ路線を伸ばし駅も増えていった。昭和18年(1943年)戦時買収私鉄に指定され国有化、鶴見線となり今日に至る。
鶴見線は駅名がユニークで面白い。鶴見駅の次は国道駅であるが、単純に国道の傍にあるからとして付けられた。鶴見小野駅は地元の大地主小野信行、浅野駅は浅野財閥創設者で鶴見臨港鉄道の社長浅野総一郎、安善駅は安田財閥の安田善次郎(東京大学安田講堂の建設資金寄付者)、武蔵白石駅は日本鋼管の白石元治郎、大川駅は製紙王の大川平三郎(中央大学創設に関わった穂積陳重先生の内弟子でもあった)から取った。扇町駅は浅野総一郎の家紋が扇であった。
昭和駅は昭和肥料(後の昭和電工)の工場近くにあったから。芝浦駅は芝浦製作所(後の東芝)の近くにあったから付けられた。日本の資本主義黎明期に活躍した人物や企業がこの短い路線に詰まっていた。

鶴見線のガードを通過すると生麦へと入る。文久2年(1862年)この生麦付近で薩摩藩主島津茂久の父で国父と呼ばれた島津久光の行列に、騎馬のままのイギリス人4人が行列に逆行して進んでしまった。供回りの怒声に、まずいとは気づいた模様だが、下馬せずに馬の向きを変えようとして、余計に混乱を招き、ついには供回りの者に切り付けられた。
イギリス人男性1人は絶命。二人の男性はけがを負いながらも、当時アメリカ領事館として使われていた本覚寺(神奈川区青木橋)に駆け込み、そこで医師の手当を受けて、一命を取り留めた。イギリス人女性は無傷で居留地まで駆け戻り、後に残されたイギリス人の救援を頼んだ。
薩摩藩一行は、神奈川宿を定宿としていたが、神奈川宿では横浜の居留地に近すぎるという事で、急遽保土ヶ谷宿に宿泊することとして、急ぎ行列を進めていった。
横浜の外国人居留地では、薩摩への報復が叫ばれていたが、冷静な人物の判断と、各国の思惑の違いから薩摩との全面戦争は避けられた。
この時、もしも薩摩との全面戦争となっていたら、もしかすると横浜が香港と同じ歴史を辿っていたかもしれない。アメリカ・フランスあたりはイギリスの戦略に乗る気はなかったのではとも思っている。
翌年の文久3年(1863年)イギリスは軍艦7艘を鹿児島湾に入港させ、薩摩との直接交渉に臨んだが、不調の上、薩摩藩の船を拿捕したことから、薩英戦争が勃発し、薩摩側は大きな被害を受けたが、イギリス側も損傷が大きく、艦隊は鹿児島湾を引き上げ、戦争は終結した。この戦闘で、薩摩藩はイギリスの軍事力を直に目にすることになり、藩内の攘夷論は急速に下火となり、イギリスに多くの若者を密出国させて西欧の文化・技術を我が物とし、開国へ向け政策を転換することになる。
この生麦の事件が、時代が大きく変わる起点となった。

生麦を通過すると神奈川区浦島町へと駅伝ルートは進んでいく。この浦島町には、全国に多々ある浦島太郎伝説の一つがある。浦島太夫・浦島太郎の親子の伝説が残されている。
昔々、この辺りに浦島太夫・浦島太郎という親子が住んでいた。太夫は仕事で丹後の国に妻と太郎を連れて赴いて行った。この丹後の国で太郎は伝説のとおり亀を助け、助けた亀に連れられて竜宮城へ行って乙姫様と出会った。それから3年の間竜宮城で過ごしたが、父母恋しさに帰ることとなった時、乙姫様は玉手箱と聖観世音菩薩の像を太郎に与えた。
ところが帰ってみると見聞きする物すべてが変わっていた。3年と思っていたが300年の時が過ぎていた。そして貰った玉手箱を開けると白い煙が太郎を包むと太郎は老人となってしまった。ここまでは聖観世音菩薩の像をもらった以外は伝説とほぼ同じである。
すでに亡くなっていた父母は武蔵の国白幡の峰に葬られていることを聞いた太郎は、その墓の傍らに小さな庵を建て、聖観世音菩薩を安置し、父母の菩提を弔って生涯を過ごした。   
この庵が後に観福寿寺(別名うらしま寺)となったが、明治5年に廃寺となり、現在は慶運寺に聖観世音菩薩は安置されている。(神奈川区歴史あらかると、より)

道路の幅は広いが、ビルやマンションに挟まれ、目標となる構造物が少ないことからペース配分が難しいルートであるかもしれない。

浦島町を過ぎるとJR東神奈川駅がある。ここは八王子と横浜を結ぶ横浜線の起点の駅でもある。明治41年(1908年)八王子や甲信地方で生産された生糸を横浜への輸送を目的として、横浜鉄道によって開業された。横浜鉄道は横浜の生糸を販売する豪商の一人原善三郎(有名な原富三郎(三渓)の妻の祖父である)が中心となって設立されたが、貨物の運送がメインであった為、赤字続きであり、大正6年(1917年)国に買収され、今に至っている。生糸が輸出品の重要品目であった時代、三多摩地区や埼玉県、群馬県、甲信地方の広い範囲で生糸が生産され、八王子に集積され、八王子もお金持ちの生糸商人達が集まり、盛大な旦那遊びの場が揃っていった。
かつては、八王子から横浜までを人や馬などで運んだ道が存在した。今、この道が日本のシルクロードと名付けられているが、江戸幕府がこの道を使うことを禁じ、一旦江戸に集積させて横浜に送るように命じた。これは幕府による通行税稼ぎが目的であった。明治になって、鉄道による輸送力に目を付けた生糸商人たちが発想した路線であった。
豪商原家は、関東大震災後の横浜の復興に私財を投じての援助が響き、豪商のイメージは無くなったが、その遺産としては、広大な本宅跡が野毛山動物園となり、多くの文化財的建造物を有する別荘跡は三渓園として、横浜市民の憩いの場となっている。

箱根駅伝ルートも東神奈川を過ぎ、青木橋近くに本覚寺というお寺がある。ここは開港当時アメリカ領事館として利用され、タウンゼント・ハリス公使や生麦で切り付けられた。二人のイギリス人を治療したアメリカ人の医師もここに住んでいた。その医師の名前がヘップバーン(キャサリン・ヘップバーンやオードリー・ヘップバーンと同じスペルである)とも読めるのだが、本人はヘボンと名乗っていた。ヘボン式ローマ字を創作した人物である。今も日本国内でのローマ字表記の80%程はこのヘボン式が使われているという。
ヘボンは自分の名を漢字で「平文」と書き、日本をこよなく愛してくれた。
また、教育にも熱心で文久3年(1863年)横浜で英語教育のために「ヘボン塾」を創立した。このヘボン塾を基にして明治19年(1886年)明治学院が設立され、1949年明治学院大学となった。

本覚寺から横浜駅の方角に少し歩を進めると、旧東海道の坂道に続く道がある。初代歌川広重の東海道五十三次の浮世絵に描かれた神奈川宿に出てくる坂道である。この坂道の左手に「さくらや」と書かれた看板があるが、その旅籠が文久3年(1863年)田中家(たなかや)として創業され、横浜でも老舗の料亭として今も営業が続けられている。
幕末期には、勤王の志士を表する者たちや、ハリス公使達が料理を楽しんだそうである。また、変わったところでは、坂本龍馬と日本で最初の新婚旅行をした龍馬の妻おりょうが明治になって勝海舟の口利きでこの田中家で働いていたそうである。ここで働いた後、横須賀の方の漁師と一緒になったそうであるが、定かではない。
この田中家の海側の窓から、海上に築堤が作られている様子を写した写真がある。これは、新橋駅から旧横浜駅(現在の桜木町駅)へ進む線路をこの築堤の上に敷設し運行することにしたためである。遠く横浜港や野毛山が見えるが、手前ほどの家並みを見ることはない。

明治33年(1900年)開催された月は不明であるが、某月26日、この田中家において東京法学院々友会春季大会が開催された新聞記事がある。この当時は、まだ中央大学ではなく、東京法学院の名称であった。この会合では、横浜地方裁判所検事正「香坂駒太郎氏」の帰朝講演が行われた。香坂駒太郎氏については「英米二国間における検察事務に関する演述」なるものが司法省総務局から出版されている模様であるが、その内容は筆者には判らないが、本学の法学部の先生の誰かが知っているかもしれない。
明治35年(1902年)4月16日が横浜支部の創立の日となっているが、中央大学の創設者の一人である花井卓蔵先生を招いたことがきっかけで、支部を創設したそうである。

横浜市民のソウルフードの一つに「シウマイ弁当」がある。日本で最も多く製造・販売されている駅弁とされる。駅弁として横浜駅で発売されるようになったのは昭和29年(1954年)であったという。今も赤い制服で売り場に立つシウマイ娘が売店に彩を添えている。
シウマイ弁当には、まだプラスチックの醤油入れが無い頃は、陶器で作られた白く細長いひょうたん型容器に様々な姿の絵が描かれた醤油入れが入っていた。「ひょうちゃん」と呼ばれて、人気があった。結構集めたのだが、残念ながら全部なくしてしまった。
なお、シウマイ弁当はシュウマイ弁当でもシューマイ弁当でもなく、シウマイ弁当である。販売会社のこだわりがあるのでしょう。

当初、横浜駅とされた駅が現在は桜木町駅となっている。その桜木町駅に鉄道開業当時から使われた機関車が展示されている。今の横浜駅は2回の引っ越しを経験した三代目の駅である。明治33年(1900年)発表された鉄道唱歌に「鶴見、神奈川あとにして、ゆけば横浜ステーション。湊を見れば百船の煙は空を焦がすまで」と歌われたように、この頃の横浜駅は今の桜木町駅のようであり、今は無くなった神奈川駅も歌いこまれている。
 また、横浜駅は1915年この三代目の横浜駅が作られてから、東口及び西口の周辺を含めて各所で工事が続き、日本のサグラダ・ファミリアとも揶揄されていたが、2022年ようやく工事に一区切りついたようである。

横浜県ではなく、なぜ神奈川県となったのかについては、一説に日米通商条約締結にあたり、アメリカは神奈川湊の開港を要求し、条約文書では神奈川湊を開港すると記載されたにもかかわらず、幕府は神奈川では江戸に近く、交通の要衝でもあることから、横浜村に港を設けることに決めてしまった。このことにアメリカ側は激怒したといわれている。
そこで幕府は横浜も神奈川湊の一部であるとする狗肉の策を採った。それは神奈川奉行所を横浜村の近くの戸部の山の上に設置して、神奈川奉行所と名前を付けて、横浜湊の神奈川湊の続きであるとした。その後明治になって、廃藩置県の政策の中で、かつての奉行所を裁判所として機能させ、裁判所を県庁とした。神奈川奉行所は神奈川裁判所となり、神奈川県庁となったことから神奈川県となったという説がある。