横浜駅前を走り抜けると、駅伝選手にはJR根岸線のガードが見えてくる。この辺りは高島町と地名が付いているが、元は埋め立て地で高島新田と呼ばれていた。この埋め立て工事を実施した高島嘉右衛門の名からつけられた。
高島嘉右衛門は横浜の外国人居留地に設置されたガス灯に供給するガスの製造会社を作り、大いに蓄財を遂げた。
高島嘉右衛門は若い頃、事件を起こし投獄された経験がある。その時、牢屋に捨て置かれていた孔子の著書の一つ易経を手にしたことから、占いに興味を持ち続け、設立したガス会社を売却して易の勉強に邁進することとなった。売却されたガス会社は後に「東京ガス」と名を変えて巨大企業となった。
高島嘉右衛門の占いは精度が高く、政財界の大物から一般庶民まで多くの人がその門をたたいていた。高島嘉右衛門監修の暦が発売されると、飛ぶように売れたという。それまで庶民が手にする暦と言えば農事歴ぐらいしかなかったが、日々の吉凶が記された暦は重宝された。
今も、年末が近くなると、本屋やコンビニにも「高島易断暦」と称した暦本が並べられて売られているが、このベストセラーの暦の原型であった。
高島町を過ぎてしばらく進むと、国道1号線と国道16号線の交差点に近づいてくる。
国道16号線は神奈川県内を横須賀から横浜、大和、相模原の各市を通り八王子方面から埼玉県、千葉県へと続く東京の外環道路である。
横浜の人はこの国道16号線を八王子街道と称していたが、八王子の人は横浜街道と称していると、八王子の人から教えられた。そう言われれば、納得できる話である。
江戸の終わりの頃から明治の初めにかけて日本の発展に寄与した絹を八王子から横浜へと運んだ日本のシルクロードと言われ、古くは八王子往還とも呼ばれていた。又、鎌倉時代に各所にある鎌倉街道と呼ばれた古道の一つが所々で交錯している重要な道であり、鎌倉武士の一人、畠山重忠の終焉の地と伝承がある場所もこの国道16号線沿いにある。
国道1号線と国道16号線との交差点に続いて、水道橋という交差点がある。明治の初め横浜に水を供給する近代的な水道工事がなされ、この水道道(すいどうみち)が整備された。
横浜白門会の駅伝応援の場所である国道1号線の風景である。今は人気のない、通過する電車の轟音だけが響く場所であるが、駅伝当日はこの狭い歩道に人がびっしりと並んで駅伝選手たちに声援を送っている。
国道1号線は、この保土ヶ谷橋交差点で90度に右に曲がっていく。保土ヶ谷橋と名称は立派だが、小さな川に架かる見落としそうな橋である。橋を渡ると左側に保土ヶ谷宿の本陣跡の看板が見える。
横浜開港当時に本陣の当主であった軽部清兵衛は横浜の総年寄りとして私財をなげうって横浜の埋め立て事業に関わったが、工事が難航して相当に苦労したそうである。
保土ヶ谷橋を渡ると、江戸時代には、両脇に保土ヶ谷宿の旅籠が多数並んでいた道を駅伝選手は戸塚方面に向かって走っていく。今は国道1号線が拡幅されその面影はほとんど失われているが、一軒だけその面影を残す家がある。
「お江戸日本橋七ツ立ち」と歌われたが、季節によって違いがあるが、江戸の町では、明け方の4時頃から6時頃に木戸が開けられて、日本橋から出立すると、足の速い者は保土ヶ谷宿を越えて戸塚宿まで歩いたそうだが、足の遅い者はこの保土ヶ谷宿に泊まることが多かったそうである。この先には難所と言われた権太坂があるため、この坂を越えて戸塚宿まで行くか、どうするかが旅人の判断に悩むところであった。
ご先祖が保土ヶ谷宿で旅籠を営んでいた家の古老が、旅籠の亭主は旅籠に居てはいけないと教えられたそうで、その理由はと聞くと、泊り客の中に武士がいて、旅籠の誰かがその武士を怒らせたとすると、その武士が亭主出てこいと怒鳴り散らし、刀の柄に手でもかけたなら大変!うっかり亭主が出ていこうものなら「そこへ直れ」といって刀を抜くかもしれない。抜いたら最後、亭主を切らないと武士の面目が保てない。しかし,女将が出てきて、「あいにく亭主は留守でございます。なにか粗相でもありましたなら、女将の私めがお聞きいたします。どうかお怒りをお沈めなさって下さいまし」と言われれば、武士も女を手に架けたとあっては面目が立たず、切らないでも良い人を切らずにすむ。という訳で、ともかく事は鎮まる。そこで、旅籠の亭主は夜になると寄合と称して、酒を飲みに行ったそうである。何やら旅籠の旦那衆にとっては都合の良さそうな話であるが・・・
権太坂に向けて国道1号線の歩道に、箱根駅伝の選手たちを描いたマンホールの蓋が設置されている。
実はこの辺りから権太坂に向けて少しずつ上り坂になっている。ここまでは平坦な道が続いていたが、ここからは選手たちの足に少しずつ負担がかかってくる。権太坂のピークまでは少しずつ傾斜を増しながらダラダラと登りが続くので、選手たちのペース配分がこの区間の走破に影響するようである。
現在の国道1号線権太坂から少し離れた所に本来の権太坂入り口がある。
この坂の名の由来は「新編相模国風土記」に記載がされているが、日本昔話風に書くと次のようになる。
昔、江戸から西国に向かう旅人がおったそうな。保土ヶ谷宿から戸塚宿に向かって歩いていくと急な坂道が目の前に現れてきた。「あれ、きつそうな坂道じゃのう」とつぶやきながら坂道を登り始めたが、あまりの急坂で息遣いも激しくなり、額からは汗が噴き出していった。
旅人は「凄い坂道じゃのう。いったい、なんていう名の坂道じゃろうか」と思いながら登っていくと、坂の途中の傍らでお百姓さんが畑を耕しているのが見えたそうな。旅人はやれ、あの人に坂の名前を聞いてみるかと思い立ち、「もうし、この坂道は何という名なのかね」と声をかけた。ところが、お百姓さんは黙々と畑を耕し続けるばかりで、こちらの方を見るでもなかった。旅人は、おや聞こえてなかったとみえる、もう一度声をかけてみるかと、今度は大きな声で問いかけてみた。するとお百姓さんは鍬を振る手を休めて、旅人の方に顔を向けたそうな。
旅人は、「この坂は何という名かね」ともう一度聞いたそうな。ところが、このお百姓さんはいささか耳が遠くて「はて、この旅人は俺の名前を聞いているようだが、何の用なのかね」とすっかり自分の名前をこの旅人が聞いていると思いこみ、「あー、権太だよー」と答えたそうな。
「おう、権太かね。いや、仕事の手を止めて申し訳なかったね」と旅人は応じて、「そうかい権太坂というのかね」と一人納得して、また旅を続けたそうな。以来、この坂は権太坂と言われるようになったという事である。めでたし、めでたし。(但し、諸説あります。)
往時の権太坂は人ばかりか、荷役の馬や牛にも相当にきつい坂道であったようで。旧東海道の権太坂の頂点付近には、この坂で命を落とした人や牛馬の死体を埋めるための大きな投げ込み塚が作られ、今でもその塚は祀られており、年に一度は供養が施されている。