横浜白門会支部創立120周年「箱根駅伝ルート」散策紀行(権太坂→戸塚中継所編)

権太坂を過ぎると、しばらくは変坦な道が続く。駅伝ルート沿いは、かつて大きな工場が建ち並ぶ場所であったが、今は工場も少なくなり、住宅地に変貌している。

平坦な道をひた走る選手たちは、やがて不動坂の標識を見ることになる。
この不動坂は江戸時代に、大山(おおやま)信仰で賑わった大山街道の入り口があり、その入り口に不動明王を祀ったお堂が置かれていたことから不動坂の地名となった。

この不動坂の近くに、横浜の居留地で商売をしていた英国人カーティスが白馬亭というホテルを開いた。居留地に住む外国人たちが鎌倉や金沢八景に遊山に行く途中、このホテルに泊まり賑わっていた。このホテルのハムはカーティスの自作で評判が良かった。
近在の村長であった齋藤家はこのハム製造の権利を獲得し、明治20年(1887年)齋藤商会を創業しカーティスの下で修業していた職人を雇いハムの製造を始めた。
後に帝国海軍にハムを納入するにあたり、品名をつける必要があり、この辺りが旧相模国鎌倉郡であった事から、鎌倉ハムと命名した。

明治31年(1898年)に大船駅前に旅館を営んでいた富岡周蔵が大船駅での駅弁の販売を開始した。「大船軒」と称して販売していたが、明治32年(1899年)当時高級食品であったサンドイッチを「衛生 サンドウヰッチ旅行用」と命名し駅弁として売り始め、駅弁としては大ブームとなった。当初は輸入したハムを使用していたが、鎌倉ハムの製造販売を行う鎌倉ハム富岡商会を設立してサンドウヰッチのハムも供給した。今もハム食品コーナーに並ぶ鎌倉ハム富岡商会の始まりであった。さらに大船軒は大正2年(1913年)に近くの海で獲れる鯵を使った「鯵の押しすし」の販売を始めた。この駅弁も大ヒットして今日まで長く親しまれている。

不動坂を過ぎると、横浜新道の出口方面に駅伝ルートは右にカーブしていく。横浜新道との合流地点から戸塚の中継所までは緩やかには見えるが上り坂が続き、選手たちの残りの体力を消耗させる道でもある。この道は正式には戸塚道路と呼ばれるが、この道を作らせたのが吉田茂元首相であったという都市伝説がある。戸塚駅そばの大踏切が開かずの踏切で、何時も大磯から東京に行き来するのに時間がかかり、車の中を葉巻の煙で一杯にし、イライラしながら「バイパスを造れ」と怒鳴ったので、造られた道路だから、という事で吉田元首相のあだ名(ワンマン)からワンマン道路と長く言われていた。

戸塚中継所まで、あと少しの最後の坂道で、吉居大和君が駒澤大学と青山学院大学の選手とデッドヒートを繰り返し、最後にトップに立ち戸塚中継所に入っていった、あの時の勇姿は今も目に焼き付いている。