今回は、藤沢白門会支部の会員有志の方が参加した。戸塚駅で集合、戸塚中継所に向かい藤沢を目指した。
戸塚中継所は人影もまばらで、駅伝当日の黒山の人だかりが懐かしい。ここから往路第3区が始まる。
走り出してすぐに「おかる勘平道行の碑」が建てられている。仮名手本忠臣蔵で演じられる早野勘平と腰元おかるが江戸を逃げるようにして京都に向かう道行で、右手に富士山を見て、左手に江戸湾を眺める場面であるが、作者の創作であり、史実ではない。
浅野内匠頭の吉良上野介への刃傷により赤穂藩浅野家は取り潰しとなった。この時一緒に勅使饗応役をしていたのが伊予(愛媛県)吉田藩伊達宗春であった。
愛媛県に伊達家?と思う節もあろうが、伊達政宗の長男秀宗は側室の子であったので、正室の子忠宗との跡継ぎ問題で政宗も悩んでいたが、秀宗が大坂の陣で活躍したことの論功により、徳川秀忠の命で領主不在となっていた伊予板島領が秀宗に与えられた。伊達秀宗は藩主となって着任すると、そこの地名を宇和島と変えて、伊予宇和島藩となった。
秀宗が亡くなると、本家の仙台藩のお家騒動よりも先にこの宇和島藩でお家騒動が持ち上がり、強引に伊予吉田藩として宇和島藩を二つに分けるようにして分家した。
分家後伊予吉田藩は幕府の命による土木工事、勅使饗応役と金が出ることが続き、享保の飢饉が追い打ちをかけ財再破綻が廃藩置県まで続き、明治に入っても百姓一揆が起こり、旧藩領に日本最後の百姓一揆の地という小さな手書きの看板が残されている(史実かどうかは不明)。赤穂藩浅野家の悲劇は歴史に残ったが、伊予吉田藩伊達家の領民の苦労を知る人はすくない。
幕末期、伊予宇和島藩に一人の秀才がいた。その少年は宇和島藩の貢進生として、江戸の大學南校に進学し、維新後は開成学校で法学を学び、イギリス、ドイツと留学をして日本に帰国後、東京帝国大学で教鞭をとり始めた。
元宇和島藩主伊達宗城が渋沢栄一と親しかったことから、宇和島藩元家老の仲人により渋沢栄一の長女と結婚し、学会のみならず、財界にもその名「穂積陳重(ほづみ のぶしげ)」が知られる存在となった。
明治18年、増島六一郎、菊池武夫、穂積陳重他総勢18人の法律家達が集まり法律学校を創設した。学校の名前を英吉利法律学校という。これが中央大学の歴史の始まりである。
明治21年、菊池武夫、穂積陳重の両先生他2名を含む4名が日本で初めて法学博士号を授与された。
明治24年、帝政ロシアの最後の皇帝ニコライ2世が皇太子時代に日本を訪れた際に、滋賀県大津で警備に当たっていた警官にサーベルで切り付けられる大津事件が発生した。
国論は犯人の死刑が大勢であったが、時の大審院(現在の最高裁判所)の長官であった児島惟謙は穂積陳重先生と同郷の元宇和島藩士であったことから、幾度か穂積邸に出向き何やら話し込んでいたという。
穂積陳重先生は児島惟謙を支持し犯人死刑論を非難した。結局裁判は、児島惟謙の指導で死刑判決はなされず、無期徒刑と判決が下った。当時の先進各国は日本にも司法の独立が浸透してきているとして称賛したが、大審院長官の児島惟謙が下級審の審理を指導したことによる悪例を残したとして批判される部分もある。
戸塚と藤沢との間に原宿という地名がある。戸塚宿、藤沢宿は幕府が定めた宿駅であるが、旅人の足の具合によっては、公式の宿場にたどり着けない場合もあり、間の宿(あいのしゅく)として幾つかの小さな宿が自然発生的に出来ていた。その一つが原宿である。
この原宿を走り抜けて遊行寺坂へと駅伝ルートは進んでいく。
往路を走る選手にとって遊行寺坂は気持ちよく走ることができる道であるが、復路は権太坂と同じく長い上り坂が8区を走る選手たちの最後の体力を消耗させるように立ちはだかる。3区の往路と8区の復路のいずれも順位を左右する坂である。
遊行寺坂の名称は、坂の麓にある浄土宗系の時宗の総本山清浄光寺に宗祖遊行上人一遍が祀られており、その遊行から遊行寺という通称の方が広まり、つけられたと思う。
一遍は、かつて四国に本拠を持ち一時は瀬戸内海の水軍を一手に従えて、強大な勢力を保持した河野一族の末裔であったが、没落した河野一族の悲哀を見てか、僧侶となって当時流行していた阿弥陀信仰を学び、鉦を叩きながら足を踏み鳴らし、矢倉の周りを、念仏を唱えながら回り続けるという独特の信仰の形態を作り上げた。この矢倉を回る僧侶や信者の姿から、念仏踊りや盆踊りが生まれたのではとする説もある。